□報告書

<走行記録>
天気;晴れ時々曇り
距離;50.3km、750up

<プラン>

<旧山陽道>県道164〜県道272〜県道151〜船越峠〜県道151〜県道274〜白い道〜(一貫田)〜<熊野跡道>〜県道174〜熊野〜県道34〜国道31

<道路情報>

・旧山陽道は、結構平坦。
・熊野跡道は、アップがある。コンビニなどが少ない。
・矢野峠!多分東京の箱根に匹敵する厳しさ。お勧めできない。


<地図>


報告書;

冬の広島の実家は、
……暇だ。

自転車を持って帰っていないので、
仕方が無いので、旅に出るとしたら、歩いていくしかなかった。
電車の旅も良い。
自転車の旅も良い。
でも、
歩く旅もかなりいい。

今回の旅のコンセプトは、
「旧街道の地名を調べる!」
人生は常に勉強である。

土地の地名は、いろいろなことを教えてくれる。
例えば、広島の本郷にある、「みたち」とう地名は、
その起源は、音からもわかるように、「三太刀」である。
地元の人曰く、元々この地方にあった古墳にあるとき、盗掘者が入って、そこから発見されたのが3つの太刀だったそうだ。
それゆえに、この地名である。
特に、文字が変わっても、音は残ることが多いので、(この場合、「mitachi」)、ひとつの地名をとっても沢山の推理をめぐらすことが出来、とても、楽しい。
他の地域との関連性も地名からわかる。
だから、
今日は、只管、電信柱からバス停から、さらには、人の家の表札まで完璧に地名を調べることにしたのだ。
さあ!
今日は晴れた!
外に出よう、そして、歩こう!!

そして、
朝出発した。
まず、向かったのは、山陽道。
この道は、広島へ向かう、現在のメインである国道2号から大分中にそれた、旧国道がそれに当たっている。
府中町は、あまり街道の面影がないが、船越峠を越えて海田町にはいると、突然古い町並みがそのまま残る閑静な街道へとつながる。
海田は呉線、山陽本線が合流するいわば交通の要所であり、今となっては小さな町だが、すぐとなりの安芸区矢野に7年住んでいたぼくにとってはすごく愛着のある町だ。
ここには、本陣の跡や昔の庄屋さんの家、さらに、由緒ある寺や、神社が沢山残っている。
となりには、直接は見えないが瀬野川という、すごくきれいな川がある。
山陽本線が走っているのもこの街道のすぐ隣だ。
アップダウンを繰り返し、山々を臨み、
その透き通った冬の冷気を吸い込む。
寒い、寒いと歩いていけば、
やがて、瀬野へとつく。

□旧山陽道海田


さて、地名だが、府中町に「府中」という駅名はない。
「向洋」(むかいなだ)という駅がひとつある。
この字からもわかるように、このあたりは大分昔海だったようだ。
それに関連してだろう、「船越」や「浜田」といった地名もあった。
海田になると、
「砂走」「中野」「瀬野」と続いていく。
このあたりの地名について。
「瀬野」は中世の当時の呼び名であった「世能荘」の「senou」が「seno」となった可能性が高い。
ところで、砂走の松並木はすばらしいものだった。
この旧山陽道のひとつのハイライトといっていい。

瀬野からは、国道を挟んで向かい側の白い道へ歩を進める。
隣を瀬野川が流れているが、だいぶ川幅は小さくなっている。
やがて、国道へ合流し、トラックが行きかう中、熊野跡道との分かれ道である、一貫田まで歩く。

□中野砂走出迎えの松


さて、 熊野跡道へと入っていく。
熊野跡道は、今は国道に淘汰されて、かなり寂しい閑散とした道だ。
そこをトラックが猛スピードで走っていく。
今回の目的地の一つ、熊野は、
確証がないのだが、地元の人曰く、もともと平家の落人が住み着いて作られた村らしい。
ここから宮島(平家の本拠の一つだった)の狼煙があがるのがよく見えたため、ここに隠れ里を作って、平家再興の折(つまり、狼煙が上がる時)を待っていたらしい。
本当かどうかは別にして、確かに、この町からは、遠くが良く見える。
その古い熊野に通じる数少ない道が、この熊野跡道というわけだ。
冬だけあって、さらに閑散としており、昼だというのに、山によって日光が遮られ、ただ、暗い。
寂しい、その一言。

前を
おばあさんが歩いている。
反対側だったので声がかけられなかったが、
ふらふら歩いていたおばあさんが、ぼくが通り過ぎたあと、
突然、
ひとりでうたを唄いだした。
(けっこうおどろいた)
知らない歌だったが、古い、懐かしい、そして、もう忘れてしまったような、
そんな歌だった。

この「熊野跡道」という道の名前もなかなか気になるところだ。
それは、すこし進んだこの道の集落、阿戸についてから予想がついた。
「ato」は熊野跡道の「ato」と関係あるのではないか。
帰って調べると、確かにそんな感じだった。
中世にはここは「阿戸村」で、江戸時代に「熊野跡村」そして、昭和に広島市と合併、「広島市阿戸地区」になったそうだ。
熊野跡道の名前はその名残だったのである。

□熊野跡道周辺の風景


熊野跡道の中に出てくる、熊野。
その名前に見えるとおり、何らかの形で、熊野は重要な位置を占めていたのは間違いがなさそうだ。
さて、
その熊野に入った。

阿戸との境にある橋の名前が、村界橋。
「界」は、境界の界、か。
もしくは、もっと別の意味での「kai」か。
というのも、民俗学によれば、村と村との境には、なにか災いが外部から入ってくる場所とされ、祠や、大きな木に魔よけなどを吊るすことがあったそうだ。(確かww)
で、どうやらその境と思われる場所に、ちゃんと祠があった、ただ、この祠がそれを意図するものかどうかはわからない。

熊野。
その名の由来は、教育委員会によれば、紀伊熊野との関係性が高いらしい。
その名のとおり、この地域の地名は、すべて、紀伊熊野の模倣となっている。
同じ方角、同じ位置関係で「新宮」「本宮」などの地名が確認された。
これだけなら、偶然の一致とも思えるかもしれないが、確実にその関係性を物語る地名として、
「海上側」というものがある。
熊野は、周りを山に囲まれた陸の孤島のような町だ。
それに海を示す地名があるというのは、紀伊熊野を意識して意図的に海の地名を入れたらしい、というのが教育委員会の見方だ。
それが本当とするなら、
今、ぼくの越えた村の境界、
それがまさに、芸州熊野の、思想的意識的熊野古道の世界への入り口だったのである。
そう考えると、海側である(つまり外からの情報、文物の入り口である)道の熊野跡道という存在は、その意識的位置からも、重要なものだったのではないか、と考えるのである。(いつに熊野跡道ができたのか、わかんないけど)

と、色々考えながら、
熊野を散策。
やがて、中心部を抜け、
熊野へ通じる別の道であった、矢野へ抜ける道を帰ることにした。
ここは峠か境界線になっていて、そこから凄まじい傾斜の坂を下っていく。
10〜15%の激坂がずっと続き、ピストンばかりで、しかも歩道がなく、トラックが多い。
地獄の道である。
矢野にいたときは熊野への道はこれしかなかったから泣く泣くママチャリで上ったものだが、今更ながら恐怖を覚えた。
比較的平坦な熊野跡道に比べ、こちらはなかり厳しい道であった。

こうして、やがて、海田に戻ってきた。
夕日がすばらしかった。
敢えて言おう。
歩きの旅もいいかも。
自転車だと、見逃すことがなんだか今日は沢山見えてきた気がした。

□ひまわり大橋と夕日


 
  



――資料と報告書トップページに戻ります。




 


inserted by FC2 system